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第61話 後戻りできない資料

last update publish date: 2026-10-18 12:43:32

第61話 後戻りできない資料

 翌朝、俺はこはるの顔をまともに見られなかった。

 理由は分かっている。

 昨日の夜、こはるが俺を呼んだ。

「……悠斗さん」

 たった五文字。

 声としては、かすれていた。

 小さかった。

 たぶん、配信で使っていた月乃こはねの声とはまるで違う。

 それでも俺には、耳の奥に残るには十分すぎた。

 朝、コーヒー豆を量っている最中にも思い出した。

 カップを洗っている時にも思い出した。

 店先の五つのトマトを見た時にも、なぜか思い出した。

 五つのトマトと「悠斗さん」に何の関係があるのかは分からない。

 ただ、思い出した。

 人間の脳は、時々まったく関係ないものを同じ箱に入れる。

 たぶん今の俺

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    第61話 後戻りできない資料 翌朝、俺はこはるの顔をまともに見られなかった。 理由は分かっている。 昨日の夜、こはるが俺を呼んだ。「……悠斗さん」 たった五文字。 声としては、かすれていた。 小さかった。 たぶん、配信で使っていた月乃こはねの声とはまるで違う。 それでも俺には、耳の奥に残るには十分すぎた。 朝、コーヒー豆を量っている最中にも思い出した。 カップを洗っている時にも思い出した。 店先の五つのトマトを見た時にも、なぜか思い出した。 五つのトマトと「悠斗さん」に何の関係があるのかは分からない。 ただ、思い出した。 人間の脳は、時々まったく関係ないものを同じ箱に入れる。 たぶん今の俺の頭の中には、「白湯」「トマト」「悠斗さん」「照れ逃げ顔」が一緒の棚に入っている。 最悪だ。 こはるも、明らかにおかしかった。 窓際の席に座っているが、いつもより少し姿勢が硬い。 白いパーカーの袖を指先まで引っ張り、ホワイトボードを膝に乗せている。 俺が白湯を置きに行くと、彼女は一瞬こちらを見て、すぐ目をそらした。「白湯、置いとく」 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。 そして、ホワイトボードに書く。【ありがとうございます】 いつもの文字。 いつものやり取り。 なのに、昨日の声が間に挟まっているせいで、どうにも落ち着かない。 俺は意味もなくカップの向きを直した。 こはるも意味もなく白湯のカップを少し回した。 二人して、白湯の周りで不審

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    第59話 辞めたいと言った夜 その夜、こはるは一度も泣かなかった。 だから、逆に危ないと思った。 泣く時は、まだ外へ出ている。 涙という形で、体の外へ出ている。 けれど、泣かない時のこはるは、内側に水が溜まっていくように見えた。 静かで、薄くて、触れたら冷たい。 昨日、事務所上層部から「本人との直接面談」「契約上の問題」という言葉が来た。 こはるは書いた。【声が出ない私は、損害ですか】 その文字は、俺の中にまだ残っている。 損害。 十九歳の女の子が、自分の喉と自分の存在に対して使うには、あまりにも冷たい言葉だった。 俺は怒った。 真柴さんに止められた。 芽衣はプリンを出した。 源三さんは「紙は人の上に置くな」と言った。 そして、こはるは名前の箱と証拠の箱の横に、方針の札を置いた。【直接会うかどうかは、私の体も一緒に決めます】 それは、昨日の小さな勝ちだった。 けれど、小さな勝ちは、次の日の朝に全部を救ってくれるわけではない。 朝のこもれびで、こはるはいつもの窓際の席に座っていた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣に白湯。 スマホは避難箱の中。 証拠の箱と名前の箱は、カウンターの下の棚に並んでいる。 店先には、今日もトマトがある。 四つだったはずのトマトは、五つになっていた。 さすがに聞いた。「八百屋さん、トマト増えてません?」 八百屋の親父さんは、店先で腕を組みながら言った。「五人衆だ」

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    第56話 ちゃんと呼びたい名前 名前を呼ぶだけのことが、こんなに大ごとになるとは思わなかった。 いや、正確には、俺は名前を呼ぶ側ではない。 呼ばれる側だ。 だから余計に、どうしていいか分からなかった。 喫茶こもれびのカウンターには、今日も三つの箱が並んでいる。 スマホ避難箱。 証拠の箱。 名前の箱。 最初に見た時は、変な店だと思った。 今も思っている。 白湯があり、トマトがあり、時々大根やこんにゃくやごぼうが流れ着く喫茶店。 そのカウンターの下に、炎上対策の証拠と、傷ついた名前がしまわれている。 もう、喫茶店というより、商店街の避難所だ。 それでも、コーヒーは出している。 たまに「懐かしい味」と言われる。 褒め言葉かどうかは、まだ決めていない。 その日の朝、こはるは名前の箱をじっと見ていた。 白いパーカー。 膝の上にホワイトボード。 今日は声を使わない日。 真柴さんからの業務指示は、もうこちらの生活の一部みたいになっている。 窓の外では、八百屋の親父さんが店先のトマトを並べ直していた。 昨日より一つ増えている。 理由は分からない。 たぶん、火ではない赤が増えたのだ。 こはるは、名前の箱を開ける。 中には、昨日までに入れた札がある。【月乃こはね】【白瀬こはる】【匿名ラジオの人】【こもれびにいる人】【白湯の温度にうるさい人】【何もない、ではないかもしれない人】【名前を知らない時から、いた人】【面倒でも、いらないではない人】 俺の札もある。

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